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2016年1月24日日曜日

望まない習慣に生活を支配される(『脳が冴える勉強法』)

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チャーリー・マンガーやウォーレン・バフェットが好んで使う表現のひとつに、「習慣という鎖は、初めは軽すぎて感じられないが、やがて重くなって壊せなくなる」というものがあります。過去記事で何度かとりあげています(例1例2)。 最近読んだ本『脳が冴える勉強法』でも同じことに触れた箇所がありましたので、以下に引用します。

ヘッブの法則[脳神経ネットワークの同じ箇所に同じ刺激が繰り返し与えられることで、学習がなされる]が重要な意味を持つのは、学習の原理としてだけではありません。人間の行動が強化される原理、つまり習慣化の原理としても、ヘッブの法則は重要な意味を持っています。

習慣化の原理として考えたときに、ヘッブの法則が怖いのは、それが望むと望まざるとにかかわらず、起こってしまう、ということ。本人が望んでいなくても、繰り返した行動がヘッブの法則により強化されてしまう、ということです。

たとえば、デスクについてまずパソコンを起動させる。起動させたら、まずブラウザを立ち上げる。ブラウザを立ち上げたら、何となくニュースサイトを読み始めて、特に興味のない記事までリンクを辿って読んでいく。そういう行動を毎日繰り返したとします(それが悪いことだというわけではありませんが)。

そうすると、その行動を習慣化したいと望んでいるわけではなくても、その行動にまつわる回路が強化されます。デスクにつくというきっかけの行動を取っただけで、後は自動再生されるように、一連の行動をとってしまう。

生活のごく一部にそういう望まない習慣を持っているだけならいいですが、私たちは普段から注意していないと、いつの間にか望まない習慣に生活を支配されている状態になりがちです。

サミュエル・スマイルズの『自助論』の中に、次のような表現が出てきます。

「時間の浪費は、精神に有害な雑草をはびこらせる」

神経学的に翻訳するなら、実際に(脳の中に)はびこるのは、悪習慣の強い回路です。そして、いつの間にかそれに動かされて、膨大な時間を浪費するようになってしまう。

これは若い頃だけの話ではありませんが、若い人の方が残されている人生の時間が長いので、より大きな損失を被るのは確かだと思います。(p.136)

2013年7月31日水曜日

生の短さについて(セネカ)

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古代ローマの哲学者セネカ(小セネカ)の文章で印象に残ったものがあったので、ご紹介します。「生の短さについて」の冒頭部分です。

パウリーヌス、死すべき身ながら、大方の人間は自然の悪意をかこち、われわれ人間は束の間の生に生まれつく、われわれに与えられたその束の間の時さえ、あまりにも早く、あまりにも忽然と過ぎ去り、少数の例外を除けば、他の人間は、これから生きようという、まさにその生への準備の段階で生に見捨てられてしまうと言って嘆く。彼らが考えるところの、この万人共通の災いに恨みを漏らすのは、何も一般の大衆や無知な俗衆に限ったことではない。名のある人々もまた、この思いに捉えられ、怨嗟の声をあげるのである。医家の中でも最も偉大な人の例の言葉も、この思いに由来する。曰く、「生は短く、術は長い」。自然を諫めて、哲学者にはそぐわない争いを起こしたアリストテレースの告発も、この思いからのものである。曰く、「自然は動物にはこれほど長い寿命を恵み与え、人間の5倍も10倍も長く生きられるようにしておきながら、それに比べて、多くの偉業をなすべく生まれついた人間に定められた寿命はあまりにも短い」。われわれにはわずかな時間しかないのではなく、多くの時間を浪費するのである。人間の生は、全体を立派に活用すれば、十分に長く、偉大なことを完遂できるよう潤沢に与えられている。しかし、生が浪費と不注意によっていたずらに流れ、いかなる善きことにも費やされないとき、畢竟、われわれは必然性に強いられ、過ぎ行くと悟らなかった生がすでに過ぎ去ってしまったことに否応なく気づかされる。我々の享ける生が短いのではなく、われわれ自身が生を短くするのであり、われわれは生に欠乏しているのではなく、生を蕩尽する、それが真相なのだ。莫大な王家の財といえども、悪しき主人の手に渡れば、たちまち雲散霧消してしまい、どれほど約しい(つましい)財といえども、善き管財人の手に託されれば、使い方次第で増えるように、われわれの生も、それを整然と斉える(ととのえる)者には大きく広がるものなのである。(p.451)


この文章は単行本『セネカ哲学全集1』からの引用ですが、同じ翻訳者名で文庫版も出ています。『生の短さについて(岩波文庫)』です。おそらくですが、文章も同じものかと思われます。

2012年8月5日日曜日

諸戸家遺訓(日本有数の大地主 諸戸清六)

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以前とりあげた『商家の家訓』から再び引用します(過去記事)。今回は明治維新前後に活躍した諸戸清六氏による家訓です。同氏は父親の残した莫大な借金2000両をかかえての出発でした。「時は金なり」を信条として「人が10時間働けば自分は15時間、人が3杯飯を食べれば自分は1杯で辛抱する、人が不用だと捨てたものは自分が利用する」という生きかたで財を成しました。明治21年(当時42歳)のころには、東京の恵比寿から渋谷、駒場に至る住宅地30万坪を買い捲り、一時は渋谷から世田谷まで、他人の地所を踏まずに行けたとあります。

第1条「時は金なり」
時は金なりである。時間は有効に使うべきである、決して忘れてはならない。

第3条「銭のない顔」
いつもお金がないという顔をすべきである。お金があるという顔をしていると、余分な出費が多くなる。仮に、お金がないという顔をしていて人様に笑われることがあっても、後々成功した暁には、流石だと褒められるものである。

第4条「質素」
派手な暮らしぶりはよくない。できるだけ質素な生活をすべきである。着物は垢が付きにくく、すぐに洗える木綿の服で十分であるので、無駄なことはするな。

第5条「人を選ぶ」
自分の財産を減らさないようにするには、平素の付き合いをする人は誰でもよいというものではない。質素倹約をして地道に生活をしている人がよいので、そのような人を交際相手に選ぶべきである。

第9条「知恵を得る」
いろんな人に会って、その人々から多くのことを教えてもらうように心掛けるべきである。

第10条「馬鹿になる」
賢い人は、いつでも馬鹿になれる人である。このような人になれば、頭を下げて色々な人に質問もでき、商売もできるのである。気位が高いだけの人間になってはいけない。

第13条「2年先を見よ」
2年先の予測、見極めができるようにすべきである。また、たまたま儲かったお金は労働の対価でないので、他人のお金を預かったのと同じことであると、心得るべきである。(p.271)


質素倹約を旨としていますが、かといって商機は逃さなかったようです。商用で汽車に乗るときは、必ず1等か2等の切符を購入し、3等には乗らなかったとあります。当人いわく「1等や2等の乗客は学識があり、実力のある人が乗り合わせている。このような人と乗り合わせるのは、商機が多く、自分のためになる。いたずらに少しのお金をケチって、チャンスを失うことは大きな利益を失うことになり、大きな損失である」としています。

2011年9月20日火曜日

お金持ちの特徴を三つ挙げよ

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蓄財を意識し始めたのは、結婚してから1年ほど経った頃でした。参考になる本を何冊か購読しましたが、そのうちのひとつ『となりの億万長者―成功を生む7つの法則』は、当時は楽しみながら何度も読み返したものです。

ご存知のない方のために同書の概要を説明しますと、アメリカの1万人を超える億万長者(資産額の最頻値は1億円強)にアンケートを行い、彼らの思考や行動がどのようなものか、とりまとめています。

著者が最初に挙げているトピックがずばり、
金持ちの特徴を三つの言葉で言い表わせば、倹約、倹約、倹約、である。

さらにキツイのは、ある億万長者の言葉。
うちのワイフの財布のひもをゆるめるのは不可能だ!

結婚してから知ったのですが、私の妻にもこの言葉がぴったり当てはまります。振り返ってみれば幸先のよいスタートを切れたわけですが、当時浪費家だった私にとっては、それなりの心労が続いたものでした。

2011年9月18日日曜日

商家の家訓

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図書館で借りてきた本「商家の家訓」を拾い読みしています。この本では、三井・住友・三菱といった現存する旧財閥の始祖も取り上げられていますが、なじみのない豪商のくだりが興味深く読めます。著者の論述の出来はともかく、引用されている家訓には重みがあり、心の頼りになるものばかりです。原文ではなく、同書に記されている現代語訳のほうをご紹介します。

まずは、江戸期滋賀(近江日野)の初代中井源左衛門の「金持商人一枚起請文」(p.77)です。

多くの人々が噂して言うことに、金が溜まる人は運のいい人で、自分にはそのような運がないなどと言うのは愚かで大きな間違いである。運というものではない。金持ちになりたいと思ったら、酒宴や遊興、贅沢などを禁じて、長寿を心掛け、「始末」(=節約)することを第一にして商売に励むより他に方法はない。これらの他に深い欲を持つならば、先祖が憐れんで手を差し伸べることもなく、天然自然の道理に沿うこともない。「始末」と「吝嗇」とは違うものである。無知なものは同じと思うだろうが、「吝嗇」だと光は消えてしまう。(後略)


もうひとつは、江戸期兵庫の豪商、伊藤二代目長次郎の筆によるもの(p.234)です。

第5条「質素倹約」
良い暮らし向きというのは、つつましく生活する家のことをいうのである。奢った暮らしをしていては、人は良い家とはいわない。衣食住を倹約すべきである。

第32条「質素な生活」
半分麦の飯とつけもの、食事はそれだけで十分である。それ以上のことは贅沢と心得て食事をせよ。

第50条「質素倹約の意味」
倹約は人の道である。「倹」とは「ただす」という意味である。これは必要な支出、これは無駄な支出、これは努力すべきことというように、物事を選び分けることである。また「約」とは、約束を破らぬ美徳をいう。
質素の「質」とは生まれつきの性質のこと、「素」とは生まれたままの汚れのない白さをいうのである。

第53条「贅沢」
今日から贅沢をしようと思ってする人は1人もない。「このようなことをしては大変だが、これくらいは差し支えあるまい」というような判断をしていると、いつの間にか、ずるずると贅沢になるのである。万事につけて程度を弁えるべきである。(後略)

第34条「当たり前のこと」
このように色々と書いているが、人々が知らないことを書いているのではない。人々が皆知っている当たり前のことばかりである。しかし、自らがそれを実行するかしないかの問題である。